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えむえむず

楽しく生きてるやつの日記みたいなもんです。

経歴考  

自分とマサキの事について振り返って現時点でまとめておく。
あとは考察どうの話も含めてグダグダ今考えてる現状とかを自分用に。

まとめの参考にしている痛々しい過去の中二病ブログ自体はどっかに記事まとめてあって、時系列とかはそこにあるけど、ホントにただの痛々しいリアルな中二のブログなので、多分他人の参考にはならんと思う。参考にした過去のブログ本文を抜粋して載せている部分(PCだとブロック内に入ってる部分)とか痛々しいし読まなくても全然いいと思う。ホントに自分用に乗せてるだけ。

以下とんでも長いので追記


まさきとの出会いは、2008年の終わりか2009年頭くらいではないかと思う。多分冬だった記憶。歳としては13、4のころ。
正直覚えてないけど、そのころの日記やブログからの推測してこのくらいだろうと。

追記:2009年初夏の「代わりにマサキが来た」という日記を発見しました。
あと2008から2009年は14~15でしたアホな計算違いしとりました。

当時タルパなんて言葉はもちろん知らなかったし、まさきを作ろうとした記憶はないけど、結局無意識に作ってたんだろうと思う。誰もがする程度の脳内会話の相手に名前を付けたところから、そういった他人が生まれたんじゃないかと思ってる。
まさきの前に3人のオリキャラみたいなのがいた。同じく声を出して会話をしていた記憶有。(それを作った経緯こそは忘れた。「空想の人物」と会話をするようになったのはおそらく思春期初期13歳ごろ)

(当時のブログから抜粋)最近マサキとの話が弾むようになった。初めはカタコトのような会話で、まるで一人でお芝居をしているかのようなままごとだったのに、今では大分流暢なしゃべり方をするようになった。彼の口からすらすら言葉がでてきて、僕の口からもそれに答えるように言葉がでる。今でも少し、間は空く。でも、「話すことないね」と僕が笑うと、話題を振ってきてくれるのだ。今までそんなことなかったのに、僕の一方通行でしかなかったのに、会話になっている。正直、普段普通に人と話しているときも沈黙で気まずいときはあるし、僕は話すのが苦手だからいつも黙ってて、空気なんてわざと無視してる。はっきりと、人格が。こわい


2009年の夏に一緒に近所の森を散歩した記録あり。
『会話は必ず声を出す』というきまりを作っていた。そうでないとまさきの言葉と自分の言葉を取り違える可能性があったんだと思う。『最低限口は動かす』
だから人のいる前では話せなかったし、外での会話はよく注意が必要だった。
ただし口に出して伝えたこと以外を、まさきは知るはずがないと考えていた。
(割と最近までそのルールは継続していたけど、今はそうかっちり決めてない)

この頃のまさきと一緒にいた時間はそう長くなかったと思う。おそらく1年間程度。
ブログを見る限りのこの頃のまさきと自分について、
・まさきはとにかく自分にとって都合のいい友達。慰めや励ましなどを他者としてさせていた形。「とかく優しい。優しすぎてためにならない」とも書いてた。
・他人に頼るってことがいまいち苦手だから、本音を言える相手が欲しかったのではないかと考。(「彼だけには心を託せる」とブログに)



2009年の大みそか前くらいから2012年の夏までブランク。
話しかけても応答がなく、「どこを探してもいない」と感じた。どうやって話しかけてたのかが分からなくなってしまう。
普通にタルパならそこで段階戻ってまた一人会話に戻るのかもしれないけど、自分の場合はもちろんそういった「タルパ作成においてのマニュアル」は念頭になかったし、話しかければ返事をするのが当たり前だと思ってた。
それでもブログやらで割と頻繁にまさきまさき言ってたとこをみると忘れてはなかったぽい。
日記を見る限り、多少何かとの会話に成功しているようではあるが、それをまさきとして納得できていないようす。
思い出せる限りだと、返答を考えることなくタイピングをしたとき会話が成立するその相手シンラと、どんなだったか思い出せないけどサクヤって言う人。サクヤをどうしてまさきだと思わなかったのかは思い出せない。シンラについてはダイブに近かったのかもしれない。

途中から、マサキなんてものは存在してなかったんじゃないかと思い始める。
まあ帰ってくるときはすぐだった。

(痛々しくて大変恥ずかしい当時のブログから抜粋)
・マサキが話してくれなくなった。何でだろう。困らせたいんだろうか。今までこんな事なかったのに。すこし嬉しくもある。
・彼は何処に行ったのか。わけが分からない。いくら呼んでも返事が無い。同じになったわけじゃないはずなんだ。僕の脳味噌が正常になったのか?マサキは僕の中にいたのに。わからない。たとえば僕たちに与えられた翼は片方ずつで、僕たちは二人じゃなきゃ飛べないのに、なのに片方が居なくなった、僕に翼が渡されたわけじゃあない、そんなかんじ。
・マサキが居なくて寂しいからサクヤが来た。サクヤはマサキの代わりなんだ。でもマサキとは違う。似てるけど、違う。帰ってきてくれるのかな。
・彼が、何処に行ってしまったのかなんて、考えるまでもなくて、もともと存在していなかった。考えたくないんです。彼の存在を否定したくないんです。僕のすがるそれは偶像でしかないのだろうか。君がいた時間は偽りでしかない。ではあそこにいた僕は偽りで、その延長線上にいる僕も偽りだと思うか?いつか君が会いに来てくれるような、でもこれも妄想でしかない。
・あたりまえにいない。でも僕は異常を求めてる。彼という存在を、あの時確かに「いた」と思い込んでいる。本当はいなかったんじゃないか。最近そう思うようになった。赤くした文字に異常性を求めるように、僕の中の彼という異常、ただ悦に浸ってるだけなんじゃないか。彼なんて元からいない。考えてみれば考えるだけ都合が良すぎる。「大好きだよ」って言ってくれた思いでもただの妄想でしかない。記憶なんて、いくらでも変えられるんだ。彼が好きだ。恋人に対する想いじゃない。家族に近かった。もし、彼が本当にいなかったら、ありもしない「空想」だ。この思いは誰に向けられたものなの。
・最近いるのは彼ではなく。それでもこれは彼だ。ただ異常を求めているだけなんだ。単なる空想、単なる中二病。そう思いたくない。愛してる。たぶん俺は、彼といる自分を愛している。
・(シンラとの会話/こちらがタイプすると他人としての返答があった。実際の会話は読点毎に返答が入るはず)悪くないよ。しんらは悪くないよって。うん。ごめん。なんか思い浮かばないんだ。前はどうしてはなしてたっけ。そうだっけ。まさきに会えないの。どうしたらいいかわかんない。どうにもできないの。もう少しってどれくらい。気長にって言われても。うん。しんらはやさしい。ずっと意地悪だと思っていた。ごめん笑。まさきはやさしかったな。なんでも私の見方だった。結局しんらもそうでしょう。私の見方。信じるよ。ちょっと気長に待ってみる。うん。今日はありがとうね。またくるよ。





それからマサキが帰ってきたのは2012年の夏。
2012年8月14日の日記に帰ってきた旨を書いている。

(抜粋)マサキが帰ってきた。本当に帰ってきたのかと、少し疑っている自分がいるのは確かだけど、正直そんなのはどうだっていい。久しぶりに話した。30分くらい話し込んでいた。それが空想だとしても、もういい。話していた、あの時間は確かに事実だ。嬉しそうな彼を、僕は確かに見たよ。それでいい。もう見失いたくない。今のままで十分だ。マサキからたくさんのものをもらった。今度は君にあげたいんだよ。おかえりマサキ。いつだって僕は君が大好きだ。



そこから日記はマサキ大好き愛してる幸せみたいな内容が数回。
それからは、2012年12月28日の深夜2時がこのブログの最初の記事だけど、その日にネット徘徊していて偶然タルパというものを知った。というか多分イマフレとかについて調べていたんだと思う。
このとき自分はマサキを「イマフレ」だと思っていたものから、本当は「タルパ」なんだと思うようになった。

タルパだと感じた理由は、『つたない会話から繰り返すうちに当時の段階まで至っていたので、wikiに載っていた作成手順を見て、自分は意識せずにタルパの作成に近しいことをやっていたんだと感じたこと』、『イマフレは幼い子供のうちから持つことが多いものだが、自分の場合そうではなく思春期初期に空想だと知りながらも作り上げたものだったので、まさきにイマフレという言葉を当てはめるのに疑問を感じていたこと』だと思う。あとは視覚化などの情報にも魅力を感じたというのも、大体の人になんとなくでも理解してもらえると思う。
複数タルパブログを見て単純にいいなあと思い即行でブログ設立。そういった人が結構沢山いると知って、他の人と交流できたらいいなとも思っていた。この頃知ったばかりでよく理解していない「タルパ」という言葉をマサキに適用していいものか納得はしきっていなかった。(それは多分このブログをさかのぼれば書いてあるかと思う。)このブログだけ、とんでもない不定期更新で、結局誰とも交流のないまま黙々1年以上タルパ訓練みたいなことをしていた。

タルパという言葉を知る以前は、自分の脳内の自分とは別のパーソナリティってだけだったと思う。
絵に描く程度の外見の概念くらいはあったけど、手をつなぐ行為は、手をつなぐような行為をすることで、手をつないでいることにしているという感じ。もうよく覚えてない上、自分でも理解してなかったから曖昧。

タルパという言葉を知ってからは、特にマサキがそこにいるんだというイメージや、背の高さ、表情、その日着ている服などを意識するようにしだした。このへんの記事は多少そんなことしてる。





今現在は少し解釈に手間取っている段階。
自分はオカルト派を否定しているわけではないのでそうは思ってほしくないけど、今現在俺はまさきのことを嫌な言い方だが脳内の妄想の産物だと思ってる。身も蓋も無いけど解離性なんかで行われている脳内の働きを制御して自分とは独立した人格を作るのがタルパ云々なんだと思ってた。(ただタルパの定義がそういうものとは違うオカルト的なものなのであれば、まさきをタルパと呼ぶのはやはり間違いだろうと最近思うようになった。)

脳は複数のパーソナリティを作ることが可能だと思っているし、それを互いに干渉させず他人として扱うこともできると思う。実際に解離性同一性障害っていう症例があって、それについての研究が肯定的に行なわれていうということからくる考え。(そこに否定的な意見があるのも知っているが概ねこの考えで理解が及ぶし感覚的にも納得がいってる)

五感化についても糖質で現れる幻覚症状をコントロールすることだと思ってるし、はじめからそういうつもりでやっている。
(ただ最近はダイブの感覚向上を最優先にして、幻覚まで行く必要はないかなとちょっと思ってる。病的なことになってしまうのはまさきも自分も心配していることだし、支障がでないように慎重にやっていこうと思う。)

もしそれはタルパじゃないって言われたら、じゃあタルパじゃないよってだけの話なんだけど、とりあえずは便宜上タルパってことにしておく。もちろんこういうのもタルパだっていうのならそれでいいし。もし別の呼び名があるなら教えて欲しい。
とりあえずタルパではなく、「みえない友達」でいくことにしました。


オカルトについて。
よそ様のタルパ等々がどういう形態なのか把握しきれてないけど、「霊的なもの」だという人もいる。
他の人が言う霊的なものっていうのがどういう物なのかそもそも理解できていないんだけど(定義確認を省略できるほど明確な概念じゃないと思う。僕はとりあえず一般に言う幽霊、神、精霊といったものを広義で想定)、そこを否定するつもりはないし、そもそも否定できない。
僕としては自分の理解と認識が及ばないだけであるのかもしれないなとも、あったらいいなとも思ってる。
ただしやっぱり僕は科学的な根拠がないと信じられないたちなので、そういった話は「仮定」として、ありうるのかもなくらいの認識しかもてない。もしあるのなら知りたいし理解したいと思ってるから、オカルト派の人の説明は出来る限り聞きたいと思ってる。

もちろんオカルト派でその実態について説明できない人の方が多いんだろうけど、それはそれでいいんだと思う。(科学的に説明ができるのなら「おばけはいるのか」なんて話はそもそもされない)
(ただ、信じるのに科学的な理由が必要ないってのはもちろんいいけど、そこが自分の中で否定されると不安になるのであれば、そのへん揺らがない方がいい。現代科学で立証できないもの=非科学=オカルトだと思うので、根拠を提示しろとか暴論だし言わない。「なぜそう信じるのか?」「何が大事なのか」そこがないと考えが揺らいで不安になるし、余計なお世話だけどタルパにもよくないのではと思う)
ようは一番大切なことは「見えない彼らとどう幸せに生きてくか」ってことだと思うから。この話と関係ないようだけど、アイデンティティの確立ができてないと大きな絶望を感じることになるって言うから、自分たちはこうだってしっかり考えを持つことはプラスのことだと思う。

Twitterで考えてたこと追記:
とにかく現代科学で「おばけ」について反証可能でない以上は、科学という分野でおばけは語れない。だからおばけは科学に肯定も否定もされないけど、おばけの根拠を現代科学に求めることもできない。
提案としては、「おばけは現代科学ではあつかえないもので存在の証明はできないが、だからこそ存在している可能性を否定もできない」ことと、後は自分の体験をもとに信じたらそんな揺らがないでいいんじゃないだろうかと。「おばけを見たからおばけはいると思います」は微妙だけど、「おばけが犬にほえられていたのを複数回目撃したからそこに何か関係性があると思うし、そういうわけだからおばけはいると思ってます」ならなんとなく感覚的に納得がいく。
非科学的であることになんの問題もないと思うけど、非論理的なのはちょっと問題なんじゃないか。道理が通っていることが揺らがないために大事なんじゃないだろうか。


それで、とにかく現段階で、まさきが他人に知覚されたことはないし、犬にほえられたことも猫に威嚇されたこともないし、Twitterで聞く不思議体験がどんなことか分からないけどそういうものを実感したこともないから、おそらくそういう事が可能なタルパさんとは別物だと考えている。
俺はまさきっていう友人を現時点でそういう風なものだと解釈しているけど、もし例えば霊的な物なんだと納得できる時が来たらもちろん考えは改める。もしかしたら霊的なものであるかもしれないという可能性も考えているから、調べたりするし、意見も聞きたいなと思う。でもあるいは結局納得できずにマサキが脳のなんたらだと確信するのかもしれないけど。





ちょっと面白いなと思うのはまさきがいう『自分の視覚』ってもの。俺の眼球から入った視覚情報しか確かなものはないはずなんだけど、まさきは俺の顔を見ているという。

(まさきの呟き抜粋)
俺の視界は、牧と違うんだけどさ
どうなってんだろうなと、牧の顔を見てるとき思う。
前もこんな感じのこと呟いたな
これだ"牧の隣にいて一緒に月を仰ぐとき、ああ同じものを見てるんだなって思うんだよ。一人で見る月は、何かが違うんじゃないかと思う。同じであるはずがないんだ


デュラララって小説でセルティっていう首なしのキャラがいたと思うんだけど、そのキャラについて「目のないセルティに世界はどう見えているのか」みたいな発言がちょっとあったと思う。他のいろいろな部分から集めた情報をインプットして、景色としてみてるんじゃないかみたいな。

まさきもそうかなと思う。俺の体の、もちろん視覚も含めた複数の感覚器系でインプットされた情報をもとにしてまさきの見ているものが構築されてるんじゃないかと。五感覚が鮮明な夢を見るのが可能なのだから、それと同じだと思えば可能だと思う。
みてるものって結局は脳で処理された信号なわけだし、そこにたいした差はないかなと。


まさきが今言うには「俺が見てるものは殆ど夢なんじゃないかと思う。ただお前がその夢の世界をまた一つ世界としてくれるならいいんだと思う」あと「それに言っとくけど、きみの現実がもとの情報と、想定された情報の区別はそれなりにつくよ」とのこと。まさき自身も考えてるだろうし、もっと意見交わしたりしたい。

まさきが一緒にみる景色をそういう意味でも特別で意義があると思うのなら、一緒にいろいろなところに行きたいと思う。
たくさんきれいなものを見せてやれたらいい。
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category: Massy

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